ラッシュライフ (新潮文庫)

ラッシュライフ (新潮文庫)


つい先日、本屋で雑誌を読んでいて、なぜかというと、友人、というほど近しい関係でもないかもしれないけれど、知り合い、というと遠すぎる気がする、まあ、そんな人が、その雑誌のレビュー欄に寄稿していると聞いたので、その記事を読んでいて、ふと、その下の記事を見たら、これまた知り合い、というにはおこがましい気がするけれど、まったくの他人、というわけでもない、まあ、そんな人が、その下の記事を書いていて、おおお、と、なんだか、うれしいような、むずむずする気持ちになった、ということがありました。

ところで、関東地方が梅雨入りしてもう1週間経つのだけれど、、大学4年生のわたしはいまだに就職活動をしていて、それこそ最初は大手企業を受けていたのだけれど、そんな高望みをしている余裕もなくなり、まあ、ここなら受かるでしょう、大丈夫大丈夫、と友人にもそう言われて、自分でもそう思って受けていた会社から、先日、「貴意に沿えぬ結果」「お祈りいたします」と、もう何回見たかわからない決まり文句を受信し、ああもう、わたしって本当に、社会から必要とされてないのね、と、そんな感じで、今日は部屋から一歩も出ていません。

「人生がリレーだったらいいと思わないかい?」
「リレー?」
「私の好きだった絵にそういうものがあってね。『つなぐ』という題名だった。それを観て思ったんだ。一生のうち一日だけが自分の担当で、その日は自分が主役になる。そうして翌日には、別の人間が主役を務める。そうだったら愉快だな、と」
「そうだとしたら、おまえの出番はいつだよ」


わたしの出番はいつだろう、と考える。
そういえば、小学校でも、中学校でも、もちろん高校でも、運動会で、リレーという競技に参加したことはなかった。運動が苦手ということは自覚していたし、チームの期待を背負って、100mだの200mだのを走りきれる自信はなかった。というよりは、そんな心配をしなくても、わたしを選手に選ぼうなんて人は、誰もいなかった。もとから期待なんてされていなかった。わたしの分のバトンも、自分の出番も、最初からなかった。ただずっと、白い楕円の外で、校庭の隅で、膝を抱えて座っていた。
卑屈なんかではなくて、そういうものなのだ。雑誌のページの、いちばん上が知っている人の記事で、真ん中も知っている人の記事でも、いちばん下はわたしの記事じゃない。次のページをめくっても、次の次のページをめくっても、わたしはいない。そのほかは、ぜんぶ知らない人で、そこに何かのつながりは、あるかもしれないけど、ないかもしれない。現実は小説ではないから、そう上手くはつながらない。
わたしがたまたま拾った鍵で、ロッカーをあけたら、拳銃が入っていた、なんていうこともない。もしあったとしても、そんな恨みなんて持ってないから、きっと、空に向かって一発ばーん、とやって、あとは自分の頭に向かって一発ばーん、とやるだけだと思う。それでもわたしはバラバラになったりしないし、ましてやそれがくっついたりもしない。部屋でボブディランを聴いていても、隣で殺人は起こらない。こんな平和な街で、泥棒になんて入られることはない。裏切る夫も浮気をする彼氏もいない。
しいていうならば、わたしは、郵便局員だ。あの真っ先に、一目散に逃げたほうではなくて、トイレだか倉庫だかに縛られて置かれている、名前も出てこない、本当にいるのかもわからない、郵便局員の、何人かの中の、ひとり。もしくは、エッシャーのあの騙し絵の、階段のところでひとり膝を抱えて座っている、兵士だか、僧侶だかわからないけど、その、彼。
でも、来ない順番を、最初からない、回ってこないバトンを、待っているくらいなら、ひとり取り残されて、寂しそうに拗ねているよりは、おとなしく、郵便局員になろうと思います。なんとなく、片足を突っ込むくらいに巻き込まれて、「いやー、まいっちゃったよ」なんて言って、過ごすのがいい。それがいい。